初めて選挙のボランティアをしたのは,1996年の総選挙で,埼玉5区,民主党の枝野幸男さんである。
新党さきがけのさきがけ塾の関係で,当時,新党さきがけに所属していた枝野事務所からパンフレットが郵送されてきた。その内容にも共鳴したし,枝野さんが国会でオウム真理教に対する法の下の平等に反する警察の過剰な対応に批判的だったことにも共感した。少数者の権利を守ろうとする姿勢が好きだった。
ポスター張りくらいはできるだろうと,ボランティアに参加したが,(今となっては考えられないことだが)枝野事務所には人がいなくて,すぐに選挙カーに乗せられ,いわゆるウグイスを行った。そこで何度も枝野さんの演説を聴く機会があった。彼の演説に魅了された。
何日かボランティアに参加し,枝野さんにも名前を覚えてもらい,とても充実した日々をすごした。選挙が終わり1ヶ月ほどして枝野さんにスタッフにしてくださいと手紙を送った。議員会館でも会ってもらった。でも,スタッフになることは断られた。
断られたことで私の中にわだかまりができてしまった。無能であるとの烙印が押された気分だった。それでも,これ以降も,枝野さんの集会には参加し,2000年の選挙でもボランティアを行った。
しかし,2003年の選挙には何ら関わりを持たず,枝野事務所の地元の秘書の方や枝野和子さんが留守中に自宅に来て名刺を置いていかれても,何も連絡をせずに無視していた。
とうとう,2005年の選挙では自民党の候補者(牧原秀樹さん)に投票した。採用はされなかったが,比例区で当選した彼の地元秘書にも応募した。勉強会にも参加した。もちろん,牧原さんの能力を評価していたからだ。党派に関わりなく有能な個人が政治に携わるべきだと考えていた。党派に関わりなく社会を,政治を変えていこう,そういう政治家を応援しようと考えていた。
でも,それは間違いだった。政治的選択とは,どちらかを選び取ることである。どっちもいいなんてありえない。彼らは自分が選ばれるために死に物狂いになっているのだ。
私はここで,小さなわだかまりのために,選択を誤った自らの愚かさを恥じたい。けっして,牧原さんを否定するわけではないが,私は枝野さんを選択するべきだったし,民主党の側に立って政治的行動を行うべきであった。