現代社会論

前期の「現代社会論・差別問題の社会学」の講義で部落差別の問題と在日の問題を学びました。またその一環として,ハンセン病の元患者の方の話をお聞きすることもできました。
ここにそのとき書いたレポートを掲載します。
現代社会論」試験(2004.7.21)

変化した認識
――「現代社会論」を受講した前と後で――

経済学部4年 0131913 吉本徹也

1 「普通に」ではなく

講義を受講する前は,差別されている人には普通に接すればよいと考えていた。彼女ら/彼らが差別されていることを考えないで,彼女ら/彼らが差別されている現実を無視して,自分は差別しないという姿勢が大切だと思っていた。
 でも,彼女ら/彼らの現実は差別されているということを切り離してはありえないということを知った。彼女ら/彼らは,部落出身であること,在日であることと常に向き合いながら生きているのである。学校時代のいじめ,就職差別,結婚差別などさまざまな差別を受けながら,生きているのであるから,そのことを捨象しては彼女ら/彼らの人生を語ることはできないのである。差別されているということを含めて,全体として,彼女ら/彼らに向き合うべきなのだ。必要なのは同情ではなく,共感であると思った。

2 マイナスイメージが問題

 自分は差別しないと思っていたけれど,自分にも差別されている人々に対するマイナスイメージがあったことを発見した。差別されている人たちは,差別されているので「暗くて,貧しい」のではないかとイメージしていたのだ。しかし,黒坂さんの本で「楽しくて,明るい」彼女ら/彼らの姿を読んで,自らの貧困な想像力を恥じた。また,川邊さんのお話を聞いて,その人間的な魅力にふれ,被差別の当事者の活力ある姿に感激した。金香月(キム・ヒャンウォル)さんのお話をお聞きしたときも,「差別されている人」とひとくくりにしてはいけないと感じた。
それから,「聞いてはいけないことがあるのではないか。」とかまえていた。これも彼女ら/彼らに対する偏見であったと思う。率直かつ真摯にむきあうことが大切であり,差別されているからといって,タブー視していてはいけないと思った。

3 「個人である」こと

 被差別の当事者であるまえに「個人である」ことに気づいていなかった。「部落」「在日」「ハンセン病」とカテゴリー化していた。「差別されている」という現実だけをぬきだして彼女ら/彼らのことを差別しない自分をつくりあげようとしていた。でも,当然のことながら彼女ら/彼らはまず『個人』であるのだ。個人から出発して,個人のかけがえのなさを理解し,個人の尊厳を保障することの普遍性を考えられると思った。
そして,そのことが差別は社会的につくりあげられたものであり,虚構であることを明らかにすると思った。